馬と鹿、午前十一時。

 

彼の生活を乱しているのはわたしだ。

学校に行かなくちゃ行けないのに、わたしの仕事が終わるまで起きて待っててくれる。彼は疲れていて、眠たいのに。わたしがわがままで寝たくないっていうと、おもしろい動画を一緒にみて笑ってくれる。お酒ひとりでのむの寂しいっていうと、のめないのに一緒に飲んで、顔真っ赤にしながらにこにこしてくれる。アフターで遅くなるのに、待っててよっていうと、バイトの後に他のお店で一人でも待っててくれる。

彼の生活を乱しているのは、わたし。

でも、彼の生活を乱せるのがわたし だけ って思うと、なんか少し嬉しいので本当に嫌なおんなだね。

 

金木犀がいい匂いだとか、星がいつもよりきらきらしてるとか、街灯のない真っ暗なコンクリートの道は海みたいだとか、そんなことを言った時に共感なんか欲しくなくて、わたしの一言をただ脳で吸収してほしい。返事なんて要らないから、手は離さないでほしい。そういうひとが欲しかったので、いまとても幸せ。幸せの後は悪いことが起きるはずだけど、そんなのもうどうでもいいかもしれない。

 

彼は寝ている時に前髪を撫でると、鬱陶しそうによける。

わたしは自分のことやっぱり好きにはなれないけれど、でも最近笑うことが増えた。嫌いな笑顔も少しマシに思えて来ちゃったよ。

彼のこと、好きじゃなくなってしまう時が来るのかな。彼はわたしのこと、嫌になってしまう時が来るのかな。

なんだかそんなの、スゲー嫌だね。

ごめんね、午前十時。

 

今日、お酒をあんまり飲まない約束をしたので、わたしはお店で作る梅酒ソーダをすごく薄くして飲んでた。

好きな人が好きと言ってくれる言葉は、本当にすごくて、馬鹿かもしれないけどそれだけで何だってできちゃう気がしたの。

わたしは今日、酔っ払わなくて、アフターでもどれだけ飲んでも酔わなくて、ただずうっと、彼の言った「早く夜の仕事をやめてね」が頭の中をぐるぐるしていた。

今お店はちょこっと大変で、もしかしたらすぐには無理だけど、だけど、近いうちには辞めたいと思っている。

好きな人に言われたからってアホで馬鹿で単純な理由なのだけれど、でも、本当に本当に大切にしたいから。

一瞬のトキメキに溺れちゃうなんて、いつかのわたしには全然想像もできなかった。

 

誰も認めてくれなくて、誰も味方のいないきみの味方をわたしだけがしたくて。

それがいつか、夢を叶えて、味方が増えて、ほかの女の子のところに行くとしても、わたしは今のきみが好きで、わたし自身も今のままじゃいけないと思ってて。

 

ひとりぼっちのきみが、なんかすごく、悲しくなって、iPhoneの充電一%で好きな人に電話をした。

言いたいことは半分も伝えられなくて、ただ泣いちゃったわたしのことも優しくしてくれて、それがまた悲しくて。

電話の最後、「おやすみ」ってやさしいこえで言ったきみに、おやすみってかえして電話の切れた瞬間、画面が暗くなっちゃった。

充電が終わった。

 

ねえ、「月が綺麗ですね」の意味は、頭のいいきみなら本当はしっていたんでしょう?

逃避、桃、午後七時。

 

幸せが今。

しくしく泣いちゃう彼の頭を撫でるとき。

うわくちびるをぷにぷにするとき。

怒られるとき。

おいで、って呼んでくれてお布団で一緒に眠るとき。

相変わらず周りの環境は変わらず、むしろ悪化している気はするけど、こういうことあるからわたし、頑張れちゃうんだろうな。

夜の仕事は、今年いっぱいでやめようかと思ってる。確かにたくさんお金はもらえるけど、なんか、お金より大事なものを知っちゃったので。

誰よりも頑張っていて、誰よりも弱い、泣かせたくない子がいるので。

わたしは、口ばっかりだから、もしかしたら頑張れないかもしんないけど、誰かから見てダサくてもバカみたいでも、ぜんぶ大事にするから。

だからわたしのぜんぶあげるよ。

灰皿と指輪、午後二時。

 

彼の家の透明なガラスの容器。

それが灰皿で机の真ん中にぽこんと置いてある。彼が昔の彼女からもらった灰皿。

お買い物に行った時、灰皿コーナーを眺めていた彼が、ぼそりと「灰皿ほしいな」と言ったので、ここぞとばかりにばかなわたしは「そうなの、そう思ってた」といって、新しい灰皿を買った。今使っているものとは正反対の、真っ黒なものを。

 

わたし、薬指への指輪は、本当に好きな人と結婚した時だけつける。

そんなふうに考えて、高校の頃他の子がペアリングをつけていても絶対に自分はしなかった。なのに、なんでか、お揃いの指輪が欲しい、なんてことを言ってしまった。彼もペアリングはしたことがなかったらしくて、こんな事を言ったら重たい女におもわれちゃうかなっておもったけれど、案外あっさり「ああ、いいよ」と言ったものだったので、びっくりして、えっいいの?ときいてしまった。

そして日曜日にお店に行き、一番シンプルなものを二人で買った。

「名前の刻印もできますが」といわれたけれど、なんだかそれは変な感じがしたので断った。そんなものないほうが、きっといい。

 

指輪をはめて、手を並べて、彼がにこにこしていて、なんかこういうのが幸せなのかなってちょっと思っちゃった。すごくばかみたいでダサいけどね。

そんなこんなで今、わたしの右手の薬指には、ぴかぴか光る幸せがある。

 

左手の薬指は、いつか、だい好きな誰かにはめてもらう結婚指輪のためにとっておく。

そのとき、わたしの左手の薬指に指輪をはめてくれるのが彼だったらいいな、なんてことを考えながら、またすこし笑ってしまった。

躁と鬱、午後四時。

 

外は雨が降っている。

薄暗い部屋の真ん中、布団に体育座りでいる。エアコンは絶えず風を送る。乱雑な机上。隣で眠る彼氏。ねえ、市役所行くって言ってたじゃん。いまお腹が空いたのかどうかわからない。太ったから食べたくない。お酒飲んでるから今なにも食べたくない。しょっぱいお菓子食べたいけど、噛むのが面倒臭い。わたしはなにをしてるんだろう。

 

この前の躁期に、希望の職場に電話をし、資格のテキストを頼んだ。土曜日に面接で、スーツも買って、やっとちゃんと 頑張ろう と思った。たしかに頑張ろうと思ってた。

 

鬱の波が来た。

何もかもダメで何もする気が起きない。疲れる。お酒も量を飲めずにすぐに具合が悪いし、ダラダラ朝まで起きてちょびっと寝て起きて仕事へ行く。自分は何もかもだめでクズだと思う。金使いは荒くなり、煙草の本数は増えて、アルコールの抜けていない時間の方が短い。メンクリの予約は手が震えて、症状をきかれたときに、何もわからなくて 不安 と言った。でも時間がなくて結局行くのをやめた。病院に行くというミッションでまた暗い気持ちになるから。時間の感覚が無くなって、どれが、それが、いつのことかわからない。脳みそがしんでいる。

 

動けなくて布団の上でうつ伏せになっていたら、彼がオムレツの作り方を教えてやるから来いと台所に立たされて教えられた。彼の作ったオムレツは、綺麗に黄色でふわふわでとろとろですごく美味しかった。作り方覚えた?ときかれたので、うん と答えた。ごめんね、きみのせかせかとうごく形のよい手ばかり眺めていたので、実はあまり覚えてないんだよね。

夏の終わり、午前三時。

 

元恋人からは相変わらず毎日電話が来る。正直、どのような意図なのかはわからない。

わたしはとったまま放置だった免許証を本来の目的で使うべく車の練習を始めて、ピアスを外し、昼間の仕事に応募した。受かる確率はめちゃくちゃ低いけどね。明日はリクルートスーツを買いに行って、近々髪の毛を黒く染める。

創作活動(て言うほど大それたものではないけど)もデザフェスを最後にフェードアウトしていこうと思ってる。

 

死ぬことができないのなら、わたしはひとりで生きられるよう努力する。愛されないのなら、わたしは誰も信じない。ちゃんとひとりで生きていく。もちろん元恋人のことはまだ好き。だけど、もう他人に頼ったり、結婚を考えたりなんて、そんな不確定な未来に期待をできるほど綺麗じゃないし。

わたしは傷ついた。二十歳の夏に。

うるさかった蝉はみんな死んで、トンボが空を泳ぐ。夜なんて肌寒い風が吹いて、季節が変わるのを感じる。

 

夏が終わるのと一緒にわたしの恋も終わった。

終わりと始まり、午後三時。

 

安易に人を信じるのはやめよう。優しさはわたしだけに向けたものではなかったこと。優しさを勘違いするのはやめよう。

右腕の噛み跡が消える頃には、もう君のことなんて好きじゃなくなってる。

仕事を変えて働く頃には、もう君のことなんて忘れてる。

左腕を切らなくなる頃にはわたしは幸せになってる。

だからそれまでは、ゆっくり眠らせてよ。